2017年02月09日

肉球は何の匂い?

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評 価:【竹】
書 名:『ネコの吸い方』
著 者:坂本美雨
発 行:幻冬舎
発掘地:東京都千代田区
発掘日:2016年7月

この方もネコ好き。
サインもネコだし、こういう本を出してるわけですから嫌いなわけがない。

言うまでもありませんが、坂本龍一さんの娘さんですね。
そして、お母様は矢野顕子さん。

どんなセレブなネコちゃんを飼っているのかと思ったら、ふつうの雑種のネコでした。
しかも、ボランティアに保護されていたのを引き取ったのだとか。
偉いですねえ。
名前はサバ美ちゃんだそうです。

以前、坂本さんがラジオで「ネコの肉球はポップコーンの匂いがする」とおっしゃっていたのが印象的でした。
長年ネコを飼っている者としては、「わかる」と強くうなずいたものでした。
筋金入りのネコ好きなんですね。

つげ義春さんの『やなぎ屋主人』という作品で、「ネコの肉球をまぶたに付けるとひんやりする」というようなシーンがありましたが、これにはあまり同意できませんでした。
身も蓋もありませんが、冷たく感じるか、温かく感じるかは“条件による”というのが私の見解です。

坂本さん。
もしかして、お名前もネコに由来するのでしょうか。
英語でネコの鳴き声は「ミュー」というそうじゃないですか。
そりゃネコ好きにもなりますわな。
posted by 七庫屋店主 at 00:28| Comment(0) |

2017年02月08日

出せば売れる○○本

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評 価:【梅】
書 名:『彼の彼女と私の538日』
著 者:川上麻衣子
発 行:竹書房
発掘地:東京都杉並区
発掘日:2016年12月

私を含め世の中にネコ好きは多いです。
そしてネコの本もまたネコ好きに比例して多いのです。

「犬の本だって多いだろ」というご指摘もごもっともですが、本に限ればネコのほうが多いような気がするのです。
気がするだけでちゃんと調べたわけじゃないですけどね。

ネコの本が多いということはそれだけ書き手が多いということでもあります。
これは私の推測にすぎませんが、ネコ本は原稿の依頼がしやすいのではないでしょうか?
ただ単に「エッセイ出しませんか?」と言うより、「ネコのエッセイ出しませんか?」のほうが食いつきがいいと思うんです。

頼まれたほうもイヤな気はしないだろうし、愛猫をプロのカメラマンに撮ってもらえるわけですから、願ってもないことではないでしょうか。

意外なところでは、歌手の中島美嘉さんもネコエッセイ出してますね。
いくら頼んでも断わられたんだと思いますよ。
「でも、ネコなら」という理由で首を縦に振ったのではないでしょうか。

川上さんのこの本。
泣ける系です。
タイトルにも深い意味があります。
写真もとてもお上手で、よく出来た本だと思います。

ちなみに川上さんの著書にはサインのある確率が高いんです。
サイン本ビギナーの方、ブックオフで探してみてください。
posted by 七庫屋店主 at 00:36| Comment(0) |

2016年07月31日

ブログを再開する前に(退屈な長文)

前ブログの閉鎖から1年。
「もうブログはやるまい」と思っていましたが、訳あって再開することになりました。

今回はサイン本の話は何ひとつ出てきません。
興味のない方は今回は飛ばして、次回からお読みください。
また、今の私の精神状態が普通ではないことも考慮してお読みいただければ幸いです。

こんなことを書いたってしょうがないことは重々承知のうえですが、今の悲しみ、悔しさ、怒り、その他諸々のことを記憶が薄れないうちに残しておきたいので、嘘偽りのないリアルな思いをお伝えします。

先日、飼っていたネコが死にました。
13才、人間でいえば68才くらいだそうです。
とくに短命というわけではありませんが、室内で飼っていれば15年以上生きることも珍しくありませんから、やや短い生涯だったかなと思います。

キジトラのオス。しっぽがカギ状に曲がってるのがチャームポイントで、攻撃的なところがまったく無い、本当に穏やかな性格の子でした。

元々体の弱い子でしたが、口内炎の悪化により気道をふさがれ、呼吸困難に陥ったことが死因のようです。
医者の言ったことが本当だとすれば、ですが。

「もう出来ることはない」と医者にサジを投げられ、家に連れ帰って看取ることにしました。
しかし、どうして医者(人間を診る医者も含めて)というのはデータ至上主義なんですかね。
毎度毎度、血液検査をしてクレアチニンがどうの、GDPがどうのと数値とにらめっこしてる。
まあ、どこの病院でもそうなのだろうけど、もう少し患者を「見て」「さわって」自分なりの見解を示せないものでしょうか。
今度のうちのネコの件にしても、終始腎臓の機能低下ばかりを気にして、口内炎のことなんかたいして問題にしていなかったのです。
ネコって高齢化すると大抵腎臓やられるんですよね。
ま、医者を責めてもしょうがないけど。

私は20代の頃からかれこれ30年ネコを飼っています。
ブランクはありません。
30年以上ネコを切らしたことがないのです。
これまで何匹ものネコの一生を見届けてきました。
しかし、臨終に立ち会ったのは今回が初めてでした。

医者にサジを投げられてから翌日死ぬまで、ほぼ丸一日その子は生き続けました。
犬のように舌を出しハァハァ言いながら24時間以上苦しみと闘ったのです。
時々何かを訴えるようにか細い鳴き声を上げ、脚をバタつかせるようなこともありました。
しかし、私たち家族は木偶の坊のようにただ推移を見守るしかありませんでした。

このとき私は、40数年前に自分の身に起きたことを思い出していました。
当時私は小児喘息を患っていて入退院を繰り返していました。
今はどうか知りませんが、当時喘息という病気は症状を緩和することは出来ても、治療によって完治することはありませんでした。
自然に治るか、ずっと治らないかのどちらかです。

喘息と聞いても、そういう病気があるのは知っていても具体的にどのようなものか知る人は少ないと思います。
自分で言うのも変ですが、私はかなり重度の喘息持ちであちこちの病院を渡り歩きました。
親が「あそこの病院が評判がいい」と聞きつけ、川崎の家から(東海道線の)二宮まで通院していたこともあるくらいです。

喘息とは「あえぐ」「いき」と書く通り、息が苦しくなります。
例えるなら“溺れる”ようなものでしょうか。
症状が軽いうちは「手を伸ばせば掴まるものがある」という余裕があるのですが、
悪化すると、だんだん岸から遠ざかり、沖へ流されていくような恐怖に襲われます。
やがて岸も見えないほど沖に流され、ひたすらもがき続けることになります。
もう掴まるものはありませんし、救援も期待できません。
ただただ水中を漂っているだけです。
こうなると医者もサジを投げます。
この時の絶望感というか孤独感は忘れることができません。

瀕死のネコが喘いでいる姿を見て、「ああ、今この子は漂ってるんだな」と思いました。
でも、自分には何も出来ず、見ているしか能がないのです。
そして自分が喘息で死にかけている時、それを見ていた両親はどう思っていたのだろうと、ネコに自分をだぶらせていました。
両親も何も出来ない歯痒さに自分を責めていたのだろうか、と。
50過ぎた今になって初めて親の気持ちを想像することができました。
その両親もとうの昔に他界しましたが…。

ペットロスとか何とかロスとか言うと、なんとも軽いものに聞こえますが、人間と同じ家族ですからその衝撃たるや半端なものでありません。
今はただ死んだ子を思って悲しみに暮れていますが、半年経ち、一年経ち、やがてこの悲しみも薄れていくでしょう。
過去の記憶はどんどんリアリティのないものになっていきます。
それを自分がいちばん分かっているからこそ書き留めることにしたのです。

ネコに限らず動物はみな死ぬことなんて考えていません。
「いません」て断定するのも変ですが、たぶんそうだと思います。
人間だけですよ、「何のために生きてるのか分からない」とか不平不満を言うのは。
生まれたからには生きるしかないんです。

さんまさんの座右の銘「生きてるだけでまるもうけ」というのはとても共感できます(私とさんまさんでは解釈が違うかもしれませんが)。
私は健康のありがたみというものを人並み以上に知っているつもりです。
普通に呼吸ができるということが、どれだけ幸せなことか。
健康な子供たちが普通に飯食って、テレビ見て笑ったり、外で遊んだりすることがどれだけ羨ましかったか。
ネコの死が、いつの間にか健康を当たり前と思っている自分を戒める機会にもなりました。

ペットのネコが死ぬこと。
犬でもウサギでも小鳥でも同じですけど、毎日どこかで何千匹と死んでいるのでしょう。特別なことではありません。
うちのネコの死もそのなかのひとつで、言ってみれば「たかがネコが一匹死んだだけ」のことです。
しかし、十年以上可愛がってきた身としては、ただ事ではありませんし、また、歳とともに受け止め方も変わってきます。

「いい年してメソメソすんなよ」
と思われるでしょうが、逆なんです。
若い時はペットの死を純粋に「悲しむ」ことが出来たのだと思います。
ただただ悲しい、それだけです。
ところが、50代の今は違います。
何と言うか、しみじみ悲しいんです。
飼い始めたときから「いずれ死ぬ」ことは覚悟していて、日々漠然とした死のイメージを頭の中で描いていました。
不思議なもので、飼い主はペットの元気な姿を見て、いつか訪れる別れをを想像して涙することすらあるのです。

言いたいことは尽きませんが、そろそろ終わりにします。
この度、愛猫の死に接し、色々考えさせられることがありました。
人はみなコロリと逝きたいとかポックリ逝きたいとか勝手なことを言います。
しかし現実はそう都合よくは行きません。
病院のベッドの上で最期を迎える人は、だいたい苦しみながら死んでいくものです。
「眠るように安らかに息を引き取りました」なんてのは社交辞令でしょう。

私もきっと最期は苦しみながら死ぬのでしょう。
コロリと逝けないのは覚悟しています。
ま、しょうがないですね、死に方は選べませんから。
喘息の苦しみを思えばどうってことない、と思うことにします。

最期までお読みいただきありがとうございました。
次回からは通常モードになりますので、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。
posted by 七庫屋店主 at 13:53| Comment(0) |